SINCE 1993(13)

2024/11/03
オガサワラヒロユキ

時は1999年。「1999 恐れなどない」とDRAGON ASHがI LOVE HIP HOPで韻を踏む数ヶ月前のこと。大学受験は、紆余曲折ありつつ、京都の大学と兵庫の大学に合格したのだが、京都の大学は実家から近くて何となくつまらんな、と思い最終的に兵庫の大学に行くことにした。(家から大学まで2時間近くの道のりで後に後悔することになる。)ある日の試験でよくわからない問題が多く、こりゃ落ちたなと思い、気晴らしに地元のTSUTAYAで椎名林檎のシングルを買って帰った。(その日の試験は合格していて、 これも縁だと思い、結局 その学部に入学した)当時、なんかアラニス・モリセットみたいやなって思っていた気が。

人生にIFはないけれど、もしも京都の大学に行っていたら、後に対バンするあんな人、こんな人の先輩、あるいは後輩だったのに、とか考えたりもする。 後悔はしていないが、今になって思えば京都の大学生活の方が楽しそうな感じするよな。そして、全くもってどうでもいい話だが、高校の卒業式では、派手なパーマを当てて、しかも3年1組、出席番号1番だったので、奇抜ないでたちで校長先生にきっちり卒業証書を読んでもらう、と言うなかなか目立つことをして、母親に「恥ずかしかった」と言われてしまった。そんな無茶なタイミングでパーマを当てたのは美容院の高校生料金が、高校の卒業式までだと思っていた、というアホな理由から。そうそう、その後、ヘアモデルでファッション誌のSMARTに掲載されると言ういい経験をした。中学生の頃は日陰者だった自分が、高校を卒業する時にはやりたいことを少しずつ主張できるようになってきていた。(と思う)

そして大学に入学。キャンパスを歩いていると、テニスサークルが幅を利かせており、サークルの勧誘で声をかけられるのだが、テニスに全く興味がないのでやや辟易し始めていた。そんな時、いきなり「君や!」と声をかけてくる男性がいた。その人は軽音サークルの人で僕がカバンに着けていたTHE WHOのワッペンを見て声をかけてきたのだった。(THE WHO、実は全く詳しくなかった。恥ずかしながら、モッズのマークにTHE WHOと書いてるのがカッコいいと思って付けていただけ。しかしそれが後に縁につながるのだから人生は分からない。)そして、その軽音サークルの新歓に誘われたので、何となく行くことにした。場所は確か夙川で桜の咲く季節。外で開催された記憶がある。先輩と、どんな音楽が好きなのか、と言った話になり、当時聴いていたUNDER FLOWERと言う日本のレーベルの話をした。これ当時すごく好きだったのだが、ZEPPET STORE木村さんの宅録プロジェクトHurdy Gurdyとか。
(木村さん、後に共演の機会に恵まれたけど、Hurdy Gurdyが好きだったこと言えばよかった)

「この子、UNDER FLOWER好きなんやって」と先輩が別の先輩に言う、振り返ったその先輩が、俵田ジュンさん (現ナショヲナル) だった。眼光が鋭く、オーラがあって「へー」と興味なさそうに返事をするその姿に、僕は軽くビビってしまった。ちなみに、この出来事から15年程経って、高円寺のクラブライナーで俵田さんと共演する機会があり、当時の話をしたがご本人は全く記憶になかった(笑)。

そんなこんなで結局、その軽音サークルに入ることにした。サークルには、今はなき神戸アートハウスのPunk Drunkerと言うコンピにも参加していたYes!! Surprise!!というバンドがいたり、俵田さんがやっていたガシューナッツと言うバンドもいた。(恐らく、俵田さんはこの頃既に4回生で、そのサークルに在籍していたのかどうかは不明)そして、凄い。そのガシューナッツ、YouTubeにあった。


そんな中、自分がやっていたスリーピースバンド、SUCKはドラマーのてつこが浪人。ベースは前任ボーカルの吉村の高校の同級生、井本が加入することになった。井本とは大学に入る前くらいに友人たちとコピーバンド(確かPuffyとかやったような)をした時に、一緒に演奏した、とかそんなことをきっかけに知り合ったと思う。元々、SUCKには有馬と言うベースがおり彼がバンドの創設者だった。しかし、コピーバンドで合わせた時の井本の感触が良かったことと、有馬にはメインのバンド(過去のお話で書いた無免許医師団と言うハードコアやエモっぽいバンド)があったことから「別のメンバーとやりたいから辞めてくれ」と。今思えば、創設者にひどいことを言ったものだと思う。下剋上。そんな新生SUCKの初ライブは確か心斎橋AtlantiQsだった。Happiness is a Warm Gunのギルビー・クラーク(ガンズのギタリスト)バージョンと言うよくわからないマニアックなカバーをした。

さらに、件の大学のサークルのイベントにも呼んでもらって、神戸STAR CLUBでもライブした。当時、下手くそなりに19歳にして全曲英詞で全曲オリジナル曲をやっていたので何となく一目置かれたような、そうでもなかったような。並行して、高校生の時に買った4トラックMTRをスタジオに持ち込んで、Page 18と言うタイトルで10曲ほど入ったデモテープを作ったりしていた。そんなこんなで自分の音楽活動も少しずつ進化していったのだった。

そして、恐らく大学1年生の冬だったと思う。上で書いたガシューナッツのイベントに来ないか?と誘われて神戸STAR CLUBに行くことに。そこで僕は、その後の音楽人生に様々な意味で少なからず影響を与えることになるバンドに出会った。

そのバンドの名前はhoneydip。

その日のイベント、確かhoneydipの出番はトップだった (ような気がする) 。そして、1曲目はこの曲だった (ような気がする) 。


ボーカル&ギターの澁谷さんは、その時、ハットをかぶって、その場で足踏みをするような動きをしていた(ような気がする)。黒いストラトキャスターを使っていた(ような気がする)。最近YouTubeで公開された当時のライブ映像を見るとムスタングを使っていたので、記憶違いかもしれない。如何せん25年も前の話である。
それはともかく、僕はhoneydipのライブにとにかく圧倒されてしまった。1曲目より後の記憶がない。確か次のバンドがBOSS OF NAKEDだったのだが、僕はhoneydipのライブの余韻が消えてしまうのが嫌で、BOSS OF NAKEDが始まるとそこでSTAR CLUBを出て家に帰ったのだった。(別にBOSS OF NAKEDが良くないとかそういう話ではない。念のため。)もちろん先輩であるガシューナッツは見ていない。ひどい後輩である。

そして後日(ヘタしたら翌日)、梅田のHEP FIVEにあったヴァージン・メガストアで名盤”Portable Audio Science”を購入。そこから日本のオルタナティヴなシーンにはまっていくことになる。当時、ステレオタイプなシューゲイザーバンドと言うのはあまりおらず、シューゲイザー的な要素はあるものの、音響系なバンドや、人力トランスなバンド、ポストロックなバンド、テクノっぽいことをしているバンド、そんなサウンドに一癖あるバンド、一言で言うとオルタナティヴなバンドが共演するようなイベントをよく見に行くようになった。

はい、長くなったので今回はこの辺で。
(11/17にhoneydipの復活イベントがある(自分も出る!)ので、頑張ってここまで書いた)
~つづく~