梅田見放題に寄せて

2017/07/10
オガサワラヒロユキ

7/15(土)は梅田見放題。僕は、13:40~POTATO KIDにて。
で、「梅田見放題に寄せて」と言うことで、ちょっと思いの丈を書いてみようと思う。

見放題と言えば、民やんとDai-changが始めたイベント。民やんとは2009年~2011年まで、一緒に「題名のない文化祭」と言うイベントを企画していた。今回、復活を果たすコルクスの志谷ケンイチ、当時knaveのブッキングマネージャーだった堤野くん、そして普通の(実は普通の、ではない)OL、ナベちゃんの5人でチームを組んだ。

民やんは当時、まだサラリーマンだったけど、いつのまにか脱サラしてその道のプロになっていた。「題名のない文化祭」が終わってからほとんど絡むことはなかったし、正直言って、今回誘ってもらったのも意外でしようがない。でも、自分としてはこのタイミングで、かつ梅田の見放題に出演する、と言うことは色んな意味を持っていたりする。

そこには、Dai-changの存在がある。

Dai-changに初めて会ったのは2006年の春だったと思う。場所はpara-diceの前身、DICEで。Dai-changは、恐らく界隈ではそれなりに知られたイベンターで、当時、自分の気に入ったミュージシャンを集めたコンピレーションアルバムを作ろうとしていた。その企画の話を聞かされ、「君も自信があるなら応募してみれば?」と言われた。それを聞いて僕は「初対面なのに、何やこの高飛車な態度は!」と内心ムカついていた。

それから数か月後、神戸のBACKBEATでライブする機会があった。その時の編成はオガサワラヒロユキグループの初期型、安井さんがギター、志村さんがドラム、僕もエレキを持っていてベースレスだった。Dai-changが関わりのあったWafflesと対バンで、Dai-changも見に来ていた。

2006年当時の写真。(レア!)

ライブが終わってDai-changが「君、めっちゃおもろいやん、コンピやらへん?」と言ってきた。初対面の時の高飛車な態度が急変したのを見て非常に満足だった。「ああ、いいですけど」とぼんやりした返事をしたものの、世間知らずな僕(当時26歳)は実は嬉しくてしようがなかった。この人のことはよく分からんが、コンピとか入れてもらえるんや、なんかワクワクする、と。

その後、DICEで”長い夢”をレコーディング(エンジニアはあの本城タカヒロ氏、コーラスにはあのpanamaさん)して、コンピレーションアルバム”4-FRAME MUSICS SOUND TRACK vol.1″はリリースされた。
※Hook UP recordsのサイトにはまだ載ってるけど売ってるのかは不明。
http://hookuprecords.shop-pro.jp/?pid=8996175

僕ももう手元にないかも?で、どんな音源だったかは記憶を頼りにするしかないのだけど、非常にローファイで歌がめっちゃヘタ。ある意味、貴重な音源かもしれない。他の人の音源がクオリティ高くて随分へこんだ。

それから数年、Dai-changとは連絡を取っていたのか、いなかったのか、記憶にないくらい曖昧な関係だった。が、突如、Dai-changはレーベルを始めたのだった。第1弾は僕も仲良くしていた京都の男女ユニット”shiba in car”。そのアルバムと、当時、愛聴していた”ゆーきゃん with his best friends”のアルバムが京都・十条にあるマザーシップスタジオで収録されたことを知った。その時点で弾き語りを始めて3年と少し経っていて、僕は、そろそろ正式な音源を作りたいと思ってその門を叩いたのだった。

初めての本格的なレコーディング。これが今でも笑い話になるほど難航した。結局1年くらいかかったと思う。だけど、苦労した分、出来上がったものをたくさんの人に聴いてもらいたいと思った。そう、身の程とかどうでもいい、全国流通でリリースしたいと思った。

そこで、頭に浮かんだのがDai-changだった。と言うより、他に相談する人はいなかった。結果的に、Dai-changは自分のレーベルからリリースしてくれて、それが”HAKUCHIZ”と言うアルバムになった。

リリースが決まると、CDのジャケット撮影で東京へ行ったり、営業で各地のレコード店を回ったり、今まで自分がやったことがなかったことをたくさん経験した。リリースに際してFM802の土井コマキさんがコメント書いてくれたり、某メジャーのレコード会社の人がえらく気に入ってくれたり、生放送のラジオに出て、DJの人の物言いにカチンと来て、2ちゃんねるに書かれた、通称「オガサワラヒロユキさん事件」なんてものもあった。

一緒に京都に営業に行った時、マクドナルドのドライブスルーでDai-changはコーラのLを頼んでいた。Dai-changはかなりの巨漢だったので、「そんなん飲んでたら早死にしますよ」なんて話をしていた。

“HAKUCHIZ”は2009年8月8日、Dai-changのレーベル”4FRAME-MUSICS & RECORDS”からリリースされ、2010年には初めて見放題に出演した。そう、まさに梅田でやっていた時のこと。会場は小さなバーだったけど(確か)入場規制がかかって凄く嬉しかった。

HAKUCHIZレコ発の模様(歌詞間違えてるのはご愛嬌)

それから、見放題と言うイベントが大きくなるにつれて、Dai-changとは疎遠になっていった。それは、一言で言うと、僕が見放題と演者の関係性に違和感を覚えるようになったからだ。それを悪とするつもりはないけど「音楽以外の何か」が内在しているとでも言えばよいだろうか。僕の興味は大きなイベントよりも知らない町を訪れて、その町の人達と一から関係性を築く、”HAKUCHIZを塗りつぶすツアー”に傾いていった。

それから数年。ライブ漬けの日々を送って経験値を積んだ僕は、2012年に2nd”TONIGHT IS THE NIGHT”を東京のレーベルWAIKIKI RECORDからリリースした。発売前に、Dai-changに音源を送った。そうすると、今でも覚えてる。一言「めっちゃいい!」とだけ返信が来た。そして、2013年の見放題に誘ってくれた。僕は音楽だけを聴いて誘ってもらえたことに満足だった。(その日のライブは人が全然いなかったけど・・・。)そして、打ち上げでDai-changは「2010年に出てもらった人には、また出て欲しいと思ってた」と言っていたっけ。

見放題2013の模様

それがDai-changとの最後の会話になった。

2014年の秋、僕は旅行でフィンランドのヘルシンキにいた。ホテルでTwitterをぼんやり眺めていると「Dai-chang、お世話になりました」と言うような内容のツイートを見つけた。亡くなったみたいな書き方やな、と思っているとDai-changは、本当に亡くなっていた。まさに急死だった。

さすがに動揺した。でも、ここは日本から遠く離れたフィンランド。何が出来るわけでもないし、スケジュール的にお通夜もお葬式も行けなかった。

後日、お通夜で僕の曲が流れていたと聞いた。(他にも同じレーベルだったshiba in car、MILKBARも)勿論、最後の姿は見れていないし、お通夜やお葬式で誰かと思い出話をしたわけでもない。そんなこともあって僕の中では、Dai-changが亡くなったことは今もどこか宙ぶらりんのままになっている。

今週末、Dai-changのいない見放題。もう当たり前なのかもしれないけど、僕は初めて実感する気がする。Dai-changのことは大好きではないけど、僕が今でも音楽を出来ているのは間違いなく彼のお蔭であるところが大きいと思ってる。Dai-changのために歌うとかはしないけど、どこかで考えるだろう。

Dai-changは「全都道府県のライブが終わったら、次は全部の町の白地図をプレゼントするからそれ塗りつぶしたらいい」と笑って言っていた。奇しくも今年の9月で全都道府県のツアーが終わる。そして、年末にはファイナルのワンマンもする。実は来年にしようと思っていた。だけど、偶然今年やる流れが出来上がった。だから、このタイミングで梅田見放題に出る、と言うのは、偶然では片づけられない気持ちがある。

非常に個人的な話をつらつら書いてしまったけど。POTATO KIDで会えた人と色んな話ができたら嬉しい。昔話を書いたけど、もちろんライブは現在進行形でやるので。サーキットもいいけど、少しのんびり色んなことを考える時間になったらと思う。